創作神楽
程原入道
Hodohara nyudo
この神楽は、平成30年に飯南神楽団初のオリジナル演目として発表した演目です。
地元である飯南町谷地区に伝わる伝説を神楽化したもので、一から団員が台本を手がけました。
今までの神楽には無い演出や表現もあり、上演後は多くの方よりご好評をいただきました。
団員の中には、物語に登場する遊那御前や程原入道の子孫も所属しております。
飯南神楽団を代表する舞となるよう、これからも大切にしていきたいと思います。
ーこの物語は、島根県飯石郡飯南町に伝わる平家落人伝説を神楽化したものであるー
文治元年(1185年)、壇ノ浦の合戦を最後に平家は源氏に滅ぼされた。平家の猛将、能登守"平教経"もまた、この合戦において壇ノ浦に身を投げ自害する。
教経の妻"遊那御前"とその子"門脇教本"は、ともに源氏の追及を逃れ、出雲の国"程原"(現在の島根県飯石郡飯南町井戸谷)へとたどり着く。
しかし、その程原を見下ろす女亀山には大蛇が住み、里へ現われては人を食らい里人を悩ませていた。
教本は、大蛇退治と引き換えに母を里へかくまうよう里人へ申し出て、見事大蛇を退治する。
平穏が訪れた程原であったが、平家の残党が隠れ住んでいるとの噂はほどなく世間に知れ渡り、残党狩りの命を受けた鎌倉幕府の御家人"佐々木景貞"は、程原へと踏み入る。
居場所を突き止められた遊那御前であったが、教本に守られ難を逃れる。
再び追っ手に命を狙われることを危惧した教本は出家することを決意し、"程原入道"と名を改める。
程原入道は後に寺院を建立し、平家一門の菩提を弔ったと伝えられている。
門脇教本(後の程原入道)
能登守平教経とその妻遊那御前の間に生まれた子。
幼くして源氏の残党狩りに追われる生活を余儀なくされる。
大蛇退治や残党狩りを返り討ちにするなど、父親譲りの怪力の持ち主であった。
後に出家し「程原入道」と名乗り、程原の地に寺院を建立。生涯平家一族の菩提を弔ったと伝えられている。
この他にも、”矢の先に米俵を突き刺し弓で山頂へ射た”など、飯南町周辺では武勇伝が数多く語り継がれている伝説の人物。
遊那御前
能登守平教経の妻。
平家軍の戦況悪化に伴い、その子教本と共に本拠地福原を離れ、落ち延びる事となる。
その際夫教経より家宝「小烏丸」の太刀と鏡を授かり、代々後の世まで受け継いだ。
”その名を言うな”という意味を込めて程原の人々から遊那御前と呼ばれていたとの説もあり、元の名は定かでない。
備後の国横谷村にて数年間隠れ住むが、その後程原へと移り、かくまわれる事となる。
息子である教本が源氏の追手に命を狙われることを恐れ、出家の道を勧めた。
平教経
平家随一の猛将と称される、平家軍の武将。
壇ノ浦の戦いでは源義経を追い詰め、かの有名な「八艘飛び」をさせるに至らしめた張本人でもある。
一の谷の戦に際して妻遊那御前に家宝「小烏丸」の太刀と懐鏡を託し、平家の本拠地である福原から逃がす。
壇ノ浦の戦いを最後に平家は滅亡。
教経もまた、二人の源氏方の武将を両脇に抱え、壇ノ浦の海へと飛び込み自害する事となる。
享年二十六歳であった。
佐々木景貞
源頼朝に使える、鎌倉幕府の御家人。
佐々木性を名乗るが養子であり、その素性は不明である。
将軍代理の源範頼に使え、壇ノ浦の戦いにも参戦。平家滅亡の後は西日本に残留し、残党狩りの奉公にあたっていた。
平教経の妻が生き残り隠れ住んでいるとの噂を耳にした景貞は、遊那御前の首を求め各地を探し回る。
程原にてついに遊那御前の居場所を突き止めるものの、神託によって駆け付けた門脇教本との戦いの末返り討ちにされる。
里長
程原を長年治める里の長。
女亀山に住む大蛇に里を襲われ、いつ自分が取り食らわれるかと、怯えて夜も眠れない日々を送っていた。
程原を訪れた門脇教本によって大蛇は退治され、遊那御前を快く里へ迎え入れてかくまうが、遊那御前の存在を見破った鎌倉幕府の御家人、佐々木景貞によって命を絶たれてしまう。
女亀山の大蛇
程原の里を見下ろす女亀山に住み着く大蛇。
その身の長さは女亀山を一巻きするほどであったという。
夜が来るたびに里へおりては人間や家畜を取り食らい、里の人々を悩ませていた。
程原を訪れた門脇教本は、自ら大蛇の退治を名乗り出て女亀山へとのぼり、見事退治に成功。里に平穏をもたらした。
玉依姫命
神武天皇を産み落とした女神。
女亀山の山頂には女神山神社があり、古くより玉依姫命が祀られている。
棲みついた大蛇によって山は荒らされていたが、門脇教本により大蛇は退治され、山は以前の落ち着きを取り戻した。
玉依姫命は教本の武勇を称えるとともに、母遊那御前の一大事を伝え、急ぎ里へ戻るよう託宣する。この託宣により、遊那御前は命を救われる事となる。
飯南町には”丹塗り矢伝説”など、玉依姫命にまつわる伝説が残されている。